本文へスキップ
Attention Handoff
人と機械の境界

監督する人、操作する人——二つの関わり方

· · 3分

この記事の要点

  • 機械と関わる姿勢には、自ら操作する関わりと、機械の働きを監督する関わりの二つがある。
  • 操作する人は流れの中にいて状況をつかみやすく、監督する人は流れの外に置かれやすい。
  • 監督への移行は楽になることではなく、別種の、しかも見落としやすい注意を要求される移行である。

機械と人の関わり方は、ひとくくりにはできない。同じ「機械を使う」でも、自分の手で操作するのと、機械がやることを見守るのとでは、注意の使い方がまるで違う。この二つの関わりを並べると、自動化が人にもたらす変化の正体が見えてくる。

操作する人——流れの中にいる

自ら操作するとき、人は作業の流れの内側にいる。一手ごとに状況が手元のフィードバックとして返り、次の一手を決める。認知科学者ミカ・エンズリーの言う状況認識は、この能動的な関与のなかで自然に立ち上がる。何が起きているかを、操作を通じて身体で知っているからだ。

操作する関わりは負担も大きい。絶え間なく判断し、手を動かし続けなければならない。だがその負担と引き換えに、人は状況の流れをつかんでいる。異変が起きれば、操作の手応えの違いとして早く気づける。流れの中にいることは、疲れるが、見えている状態でもある。

監督する人——流れの外に置かれる

一方、機械の働きを監督する関わりでは、人は流れの外に立つ。手を動かす必要は減り、一見すると負担は軽くなる。ところがこの「軽さ」が曲者だ。能動的な操作を通じて得られていた状況認識が、監督に回った途端、薄くなる。制御工学者リサンヌ・ベインブリッジが指摘したとおり、監視の役割は退屈で、注意を保ち続けるのが難しい。

そして、異変が起きて介入が必要になったとき、流れの外にいた人は、まず状況を把握し直すところから始めなければならない。操作していた人なら即座に気づけたはずの兆候を、監督していた人は見落とす。心理学者ダニエル・カーネマンが描いたように、退屈な監視のもとでは熟慮を担うシステム2が働きにくく、人は受け身に流れやすい。監督は、楽になったのではなく、別種の難しさに移っただけだ。

移行を、軽量化と取り違えない

この対比から言えるのは、操作から監督への移行を「負担が減る前進」とだけ捉えるのは危ういということだ。手の負担は減るかもしれない。だが状況認識を保つという、目に見えにくい負担はむしろ増える。しかもその負担は、ふだんは表面化せず、異変の瞬間に一気に請求される。

ただし、だからといって常に操作し続けるべきだという結論にもならない。すべてを手作業に戻せば、人は疲弊し、別の見落としを生む。問題は二者択一ではなく、監督に回る場合に、薄れがちな状況認識をどう補うかという設計にある。流れの外に置かれた人が、必要なときに素早く流れの中へ戻れる経路を用意できているか。監督という関わりを選ぶなら、その見落としやすさを前提に組み立てる必要がある。境界の引き方そのものは別稿で、残された役割の難しさは自動化の皮肉の稿で論じた。

参考・出典

  1. Lisanne Bainbridge「Ironies of Automation」Automatica, 1983年。監視役割の退屈さと注意維持の難しさについて。
  2. ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』早川書房、2012年。退屈な監視下でのシステム2の働きについて。

不定期の観察ノート

注意の移動についての新着を受け取る